華真珠。未知の輝きの物語り

それは、ダイヤモンド研磨の名人、小松一男から始まります

1967年、小松一男によって弊社は創立されました。
一男は、甲府市の隣町、韮崎市にあった「日本ダイヤ」でダイヤモンドのカットを習得しました。ダイヤモンドの研磨は完全分業制が普通でしたが、200人いた従業員中で唯一、ドイツ人エミールゲルバー氏にダイヤモンドカットの全工程を教わりました。会社が閉鎖されたのを機に、一念発起、独立を決心、開業いたしました。それが株式会社小松ダイヤモンドの始まりです。
 当初は仕事もなく、厳しい日々が続きました。そんな時、政府が戦時中に集めたダイヤモンドを競売に掛ける事を知ります。そして、あるダイヤモンド会社に電話すると「本日こちらの担当がそちらに向かっております。」とのことでした。政府が放出したダイヤモンドは「旧カット」と呼ばれるアンティークカットだったため、落札後販売するには現在一般的な「ブリリアントカット」にリカット(再研磨)しなければなりませんでした。チャンスが訪れたのです。一男のリカット技術の高さは口コミで広がり、ダイヤを落札した多くの会社から仕事を頂き、現在の会社の礎を築きました。
 「ダイヤモンド研磨」はカット面が非常にシャープです。当時石を手に持って研磨する水晶研磨とは一線を画した高度なものでした。一男もダイヤ研磨技術を工夫して黄水晶を研磨しましたが、「売れている時代にこんな良いカットは必要ない。」と甲府では相手にされませんでした。ましてや、現在世界中で使用されている「ストリームカット」(特許取得)の技術もこの頃に開発されましたが、やはり見向きもされませんでした。しかし、多くの挑戦を続けることによって、その高い技術は鍛錬されていきました。シャープなカット面に加え、仕上がる商品の優秀さが評判を呼ぶようになり、華真珠誕生につながる技術は着々と蓄えられていきました。

工場の風景。ダイヤモンド研磨に用いる治具・道具は50年の歴史を共に歩んできました。

世界初をつくろう!10年の年月をかけて華真珠は生まれました

 下請けで満足していたのではダメだ、もっと大きな夢を持とう。一男は、独自商品の開発を始めます。その中の一つが「世界初、本真珠にカットを施した真珠」の開発です。「日本で唯一産出される宝石」である真珠に注目したのです。
 日本女性のほとんどが真珠を持っていますが、冠婚葬祭以外にあまり身につけません。「もっと多くの女性に、身近なものとして楽しめるようにしたい」という発想もありました。
 しかし、ダイヤモンド研磨の高度な技術を持ってしても本真珠のカットは挫折の連続でした。工夫やアイデアを重ねてもうまくいきません。しかも、下請けの仕事をしながらですから、とてもハードでした。1989年に一男は脳溢血で倒れます。退院後は、研磨機の横にベッドを置き30分仕事をしては寝て休み、麻痺した左腕でまさに命がけで研磨に取り組みました。
 そして、1992年。「世界初、カットを施した真珠」はついに完成しました。一男はその輝きを見て非常に驚きました。なぜなら、カットすることだけを目標に研究に研究を重ねてきて、完成した時の真珠の「表情」は考えずにいたからです。それは神秘でした。未知の輝きでした。面の中に美しい真珠層が現れ、華やかな光をあふれさせています。彼は、この真珠に「華真珠」という名前をつけました。

ジュエリーの本場で、その真珠の美しさは認められました

 技術は、息子の小松一仁と小松ダイヤモンドの職人に受継がれてゆきます。誕生後、「宝石研磨石創作デザインコンテスト奨励賞」や「やまなしグッドデザイン特別賞」などを受賞しましたが、「世界中にないモノを世界に広める」苦労をここから味わいます。保守的な日本市場では「真珠はツルッと丸いもの」が常識だったのです。
 そんな時、偶然来日していたアメリカ人の業者に華真珠を見せたことによって状況は変わります。「これは、すごい!」という高い評価をいただき、すぐにアメリカで販売することになりました。海外では単純にツルッとしたものより、カットが施してありキラキラする宝石のほうが数段高く評価されるのです。
 その後、国内でも徐々に認知されるようになり、少しずつ売り上げを伸ばしていきました。また、1997年には世界で最も権威のあるG.I.A(Gemological institute of America)の機関紙にレポートされました。
 「華真珠」は、弊社が特許を持っています。華真珠が売れていくほどに予想されることでしたが、類似品も出回るようになりました。しかし、高度な技術力がなければ、その輝きは出せません。世界の市場で「華真珠はただひとつのもの」なのです。

華真珠以外に華真珠はない。真のブランドになるために

 「とにかく、開発者であることを世界へアピールしよう」。小松一仁は、その思いで、2000年、世界4大展示会の一つ「Hong Kong Jewelry & Watch Fair」へ出展しました。香港貿易発展局直営ショップにコピー品が飾られていました。華真珠開発者は我々なのだ。我々の技術は真似しても真似のできるものではない。その事実と誇りが逆に強烈な意識となって芽生えました。粗悪な真珠に粗悪なカットを施したものは売れるはずもなく、その後は消えていきました。
 香港での出展によって、海外のエステートジュエラーやデザイナーと知り合うことができ、特にイタリアのジュエリーブランド「スカヴィア」には多くの商品に華真珠が使用されています。現在は、アメリカを始め、ロシアなど多くの国に顧客を持っています。

黒蝶真珠の華真珠(カットパール)。華真珠、K18使用の帯留め(左)、米国カットコンテスト「Gemmys」受賞作品・ダブルリフラクションカット(右)

 小松一男により開発され、小松一仁によって継承、発展されていった技術は、花開いてゆきます。「真珠にカットすること」を単なる「奇抜なモノ」に終わらせないためにも、カットを進化させることに挑戦します。2009年アメリカ宝石カットコンテスト「Gemmys」に、華真珠がより輝くカット「ダブルリフラクションカット」を出品し、カット部門第1位を獲得。新カットが評価を受けたことは、華真珠が「単なる奇抜な宝石」から「希少な宝石」に脱皮したことの証明でした。2009年には、「ものづくり日本大賞」の内閣総理大臣賞も受賞します。
 誰も考えつかなかった華真珠を世界中に広めることは非常に難しく、苦労もありました。多くの知的所有権の侵害を受け、時には「もう商品開発をしてもしょうがない」と思うこともありました。しかし、華真珠に対する真摯な「ものづくり」は、世界中の方々に高く評価していただくことが出来たのです。
 華真珠を持つ喜び、その人生を華あるものとして生きてゆくために。

 華真珠の物語は続いてゆきます。